嫌われる勇気を読んで私がいかに他者の課題に囚われているかに気づく

今回読んだ本は嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教えです。この本はフロイト、ユングと並ぶ「心理学の3大巨頭」と称される、アルフレッド・アドラーの思想を物語形式で、まとめられた本です。アドラー心理学は世界中の自己啓発のメンターに影響を与えたてきと言われています。

下記が各章の見出しです。興味をひく見出しが並びます。

第1夜:トラウマを否定せよ
第2夜:すべての悩みは対人関係
第3夜:他者の課題を切り捨てる
第4夜:世界の中心はどこにあるか
第5夜:「いま、ここ」を真剣に生きる

この中でも私はとくに 他者の課題を切り捨てる の章が刺さりました。この章を読むまで、言うなら他者の人生を過ごしている状態に知らずと陥っていました。これは怖いことです。

誰かの期待に応えるために仕事をしていた私

会社員として働きだした頃は請負形式が多く、オファーやオーダーをきっかけに仕事に取り組むことがほとんどでした。また、上司や先輩から仕事を教えてもらう立場でもあり、細かな戦術は自分なりに考えるものの、課題やテーマは得意先や会社(上司)から設定されることがほとんどでした。

ここに前回読んだ自分なりのミッションがあり、それに則していれば自分の人生を生きているのでしょうが、私の場合は違いました。自分のミッションが無い状態です。おかげ、私の行動原理は褒めてもらったり評価してもらえるから仕事をするようになっていました。

アドラー心理学では他者から承認されることを否定する

「マズローの法則」「マズローの欲求5段階説」で知られる承認欲求ですが、アドラー心理学では承認されることを真っ向から否定します。私は両者ともに正しいことを言っていると思います。なぜなら、マズローが仮定している承認欲求は、欲求と言うだけあり3大欲求程では無いにせよ知らずと欲するようになっていきます。何の気なしにSNSを使っていても RTや いいねをされると嬉しく感じるのは、それが欲求だからこそだと思います。

一方のアドラー心理学が他者から承認されることを否定するのは、承認するのは他者であり、「承認をする」という選択は他者が他者の人生で行うことに過ぎないからです。自分が承認されるために行動するようになっていれば、それこそ他者の人生を生きていることになります。

本の中で紹介されているユダヤ教の教えで「自分が自分のために自分の人生を生きてないのであれば、いったい誰が自分のために生きてくれるだろうか」という言葉もあります。仕事でも同様に承認されるために仕事していては、いつまで経っても主体的な考えにはなれず、評価評判ばかり気にする反応的な人になってしまいます。

その選択によってもたらされる結末を最終的に引き受けるのは誰か

アドラー心理学には「課題の分離」という考え方があります。例えば目の前に「小学校から出された夏休みの宿題」があったとき、これは誰の課題なのか?という観点から考えを進めていきます。宿題するのかしないかは子どもの課題であって親の課題ではありません。

なぜなら、宿題をしないという選択をしたことで、その結末を最終的に引き受けるのは親ではなく子どもだからです。子どもが宿題をしない選択をしているのに、親が宿題をさせようと強制をするのは子どもの課題に土足で踏み込むようなものでトラブルの素。あくまでも夏休みの宿題は「子どもの課題」であり、親の課題ではないという考え方が「課題の分離」です。

私の場合、自分の課題をあたかも他者の課題のように扱っていました。なので、執着心のようなものも生まれません。

しかし、その課題の結末は自分が引き受けなければならず、結末を迎える段階では運が良かった悪かったという感想しか持てず、次に繋げることが難しくなってしまいます。成長を実感できないのは、この「課題の分離」ができてなかったからと本を読んで感じました。

私はこの「他者の課題を切り捨てる」の章が一番刺さりましたが、他の章も自己啓発につながる学びを多く得られます。物語形式で読みやすい一冊なので、壁にぶつかった時に読み返していこうと思いました。

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